popmylife

スウィートでポップでラヴに満ちた日常。のはずがほとんどネタと焼酎。


「ねじれ」は台風ではない--選び、引き受けなければならない、こと
■朝のラジオのニュースで、コメンテーターが「参院選で民主党が大敗して、またねじれ国会になれば、政治が混乱して国民は迷惑を被る」みたいなことを言っていた。
■そういうものの言い方はどうか、と思った。

■ちょっと考えればわかるように、次の参院選で「ねじれ」を選択するもしないも「国民」次第なのである。
■「ねじれ」は台風ではない。つまり、それは、人間の意志と関係なしにヒュッとやってきて人間に迷惑をかける、という性質のものではない。そこには、選挙による選択が確実に介在する。
■コメンテーターの言う「迷惑」というのが具体的に何なのかはよくわからないが、それをひとまず置いたとして、迷惑を被るのが嫌なら「ねじれ」ないような選択をすればいいのだし、現政権党をこれ以上信任したくないのならば、多少の迷惑を被るのは覚悟の上で「ねじれ」を選択すればいいのだ。
■そして、選択した以上は、その選択から生じる結果を引き受けなければならない。そういうことになっているはずだ。

■もちろん、多数決ルールなので、自分はAを選択したのに、非Aを選択した人の方が多くて、したがって自分の意志とは関係のない選択から生じた結果を引き受けなければならない、という事態は生じうる。そんなのはばかばかしいことだ、と言われるかもしれない。
■だが、選択の機会は1回きりではない。そして、次の機会にはAが選択されうる。その可能性が存する限りにおいて、Aを選択した者も非Aを選択した者と等しく、非Aから帰結する結果を引き受けなければならない。それが多数決ルールの本質なのではないか。

(■ちなみに、「選択しなかった」=選挙に参加しなかった者は、選択の帰結を引き受けなくてもいいのか、という話になるかもしれないが、選挙に参加しなかった者は「選択しなかった」のではなく、「選挙に参加しないことを選択した」のである。したがって、やはり選択の帰結を引き受けなければならない。それもまたルールだろう。
 ■そう考えると、「国民」はいずれにせよ「引き受けなければならない」のではないか、ということになるのだが、これには、はいそうです、としか言いようがない。これもまたルールで、そのルールが嫌なら、ルールを変えるしかない。そして、そのルールは、少なくとも法制度上は変えうるようになっている。)

■選挙は選択である。選択はその帰結に対する責任を伴う=「引き受けなければならない」。コメンテーターのものの言い方は、あたかもその責任が存在しないかのような口ぶりであり、だから私は気になって仕方がなかったのである。
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ぶつかったのは船と船--不要な「枠」をはずして、みる
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護衛艦とコンテナ船衝突・火災、3人けが…関門海峡
10月27日20時47分配信 読売新聞

 27日午後7時56分頃、福岡、山口県境の関門海峡で、海上自衛隊佐世保基地所属の護衛艦「くらま」(5200トン)と韓国籍のコンテナ船「カリナ・スター」(7401トン)が衝突し、両船で火災が発生した。

 北九州市消防局などが消火に当たり、コンテナ船の火災は午後8時35分に鎮火、くらまも午後11時20分頃、鎮火状態になった。海上幕僚監部によると、くらま側で乗組員1人が足に軽い裂傷を負い、2人が煙を吸って気分が悪くなった。門司海上保安部は業務上過失往来危険容疑で、関係者から事情を聞き始めた。 

headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091027-00001056-yom-soci   
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 言うべきことをまず言ってしまう。
 ぶつかったのは船と船である。だから、船と船が衝突した時にとられる通常の手続に沿って、ことを運べばいい。というより、運ばなければならない。

 ご存知の通り、ぶつかった船の一方は日本の「軍」が保有する護衛艦、もう一方は韓国籍のコンテナ船である。このことから、あたかも「日本」と「韓国」がぶつかったような物の書き方をしている人、さらには(コンテナ船に過失があると主張して、)「韓国」や「韓国人」を非難している人をいくらか見た。

 だが、それが明らかにおかしな議論であることは、次のような例え話で考えてみれば分かるはずだ。
 日本人が運転するトラックと、アメリカ人が運転するライトバンが、日本の道路で衝突したとする。その時、それを日本国とアメリカ合衆国の衝突だと考えることができるだろうか。また、たとえばライトバンの運転手側に全面的な過失があったとして、それを理由にアメリカ合衆国やアメリカ人全体を非難できるだろうか。
 そんなことは馬鹿げている、と多くの人が思うだろう。
 まず当たり前だが、ここでぶつかったのは国と国ではなく、車と車である。また、ライトバンの運転手は当然に過失に対する法的責任を負うべきであるが、それはもっぱらその個人に帰属するものである。

 今回の船の衝突の話も、同じことである。これはあくまで船と船の衝突であり、双方の船を操縦していた人の問題である。もっとも、その操縦者の所属する組織の問題(仮定の話をすれば、技術養成プロセスの劣化とか、利益追求のための過剰なスピード化要求とか)が背景にあることは考えられ、その場合、単純に個人の問題ではない、とは言えるし、その指摘はいたずらに操縦者個人を叩くよりも、はるかに重要であろう。だがいずれにせよ、個人や組織が制度的に属する「国」(やその「国民」)の問題とすることはできない。
 
 これが事故である以上、どちらの船に(より多くの)過失があるのかは検証されなくてはならない。また、なぜこの衝突が起こったのかの検証も欠かせない。この点も、車の衝突の例えと同じである。
 だが、その検証は、前者は法的判断を下しそれに基づく措置をとるために、後者は類似の事故の発生を防止するために、それぞれ不可欠だからこそなされるべきなのである。それによって、双方の船が制度的に帰属している国や、操縦者と同じ国籍を有する人々の集団をなじるなど、非生産的で、不毛の極みである。

 最後にもう一度、車の例えの話に戻る。
 ライトバンの運転手がアメリカ人だという理由のみで、その過失が大きく/小さく判断されたり、負わされる責任が重く/軽くなることは正当だろうか。多くの人が、そうでない、と考えるだろう。国籍など関係ない、というか、関係があってはならない、と。冒頭で、「船と船が衝突した時にとられる通常の手続に沿って、ことを運ばなければならない」と述べたのは、つまり、そういうことである。
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「容疑者」は「犯罪者」ではない--わざわざ言わせないでくれ
以下のような記事を見つけた。

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女性キャリアの星なぜ 無責任体質が巨額損失生む 厚労省村木局長逮捕
6月15日 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000017-san-soci

 「福祉」の名の下に、割引郵便制度の悪用によって160億円以上もの巨額な損失を郵便事業会社に与えるきっかけを作ったのは、「福祉のスペシャリスト」たちの無責任体質だった。障害者団体向け割引郵便制度の悪用をめぐる虚偽有印公文書作成事件で、14日に逮捕された厚生労働省雇用均等・児童家庭局長、村木厚子容疑者(53)は面倒な「政治案件」をやり過ごしたかったのだろうか。同僚からは「なぜそんなことをする必要があったのか」とキャリア官僚の逮捕に驚きの声が上がった。
(略)
 政治家の口利きがあった面倒な案件を軽くやり過ごしたかったのだろうか。後の影響も考えないまま、無責任体質を露呈するかのように部下の証明書偽造をあっさりと認めていた。
(略)
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これが、(いちおう)全国紙の記事とは、驚きである。以下、わざわざ言うのもバカらしいくらい、単純であたりまえのことを確認しておく。

記事にもそう書いてあるのだが、彼女は「容疑者」(ちなみにこの言葉はいわゆるメディア用語で、法令上の用語は「被疑者」)である。容疑者とは文字の如く「犯罪の容疑をかけられた者」で、その中には、「犯罪をおこなった者」と「犯罪をおこなっていない者」が含まれている。容疑者が犯罪をおこなったかどうかを調べ、確かにそうであると立証するのは警察・検察であり、犯罪をおこなったかどうかを最終的に認定するのは、裁判所である。

仮に、(たとえば万引き行為が現認され、現行犯逮捕された場合など)どれだけ「容疑者」が犯罪をおこなったことが確からしいとしても、裁判所が判決を下し、それが確定するまでは、「容疑者」はあくまで「容疑者」(あるいは起訴されれば「被告人」だが、それも、「裁判において被告となっている者」という意味であり、犯罪をおこなった、という含意はない。というより、あってはならない)であり、「犯罪者」ではないのである。

付け加えれば、「逮捕」というのは、「容疑者」を身体的に拘束する行為にすぎず、「逮捕された」=「犯罪者と認定された」などという等式は、(少なくとも現在のこの国の法制度上は)絶対に成立しない。そして、前述のように、容疑者の中に「犯罪をおこなっていない者」が含まれている可能性がある(したがって、何もしていない人を強制的に拘束してしまう危険性がある)からこそ、刑事訴訟法は逮捕をむやみやたらに行えないよう、その手続について事細かに定めているのである。

以上のような、(義務教育で教わるはずの)刑事裁判手続の基礎の基礎をふまえれば、匿名の記者が「女性キャリアの星なぜ」だの「部下の証明書偽造をあっさりと認めていた」だのと「事実認定」まがいの記述をし、それをヤホーニュースという相当数の人間の目に触れ(させて、予断を与え)るような形で垂れ流すことは、決して望ましいことではない。(事実、ウェブ上には既に、彼女を「犯罪者」と「認定」して、罵詈雑言を浴びせかけている人間が多く認められる。「義憤」を吐き出すのは結構だが、少し落ち着いた方がいい。)

裁判員制度が動き始めた。裁判員もヤホーニュースを見たりするだろう。この記事が扱った事件は、裁判員裁判になるような事件ではないが、裁判員(と、将来それになるであろう人々)に「容疑者=犯罪者」、「逮捕=犯罪認定」という誤った予断を積み重ねさせるソースにはなる。それを思えばこの記事は、望ましくないどころか、きわめて悪質である。
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男を日本から叩き出せ?--囲い込んだら、囲い込まれること
 先日、仕事で桜田門のあたりを歩いていたら、横断幕と日章旗を掲げてがなり立てている老若男女の集団に出くわした。立ち止まってすべてを聴いたわけではないのだが、聞こえてきた範囲で主張をまとめると、<「在日」は犯罪を犯す連中である。したがって我が国から叩き出すべきだ。そのためにも、これ以上、特別永住許可を与えてはならない>ということだった。

 さて。彼・彼女らの主張の、骨格だけを取り出してみよう。

 1 領域Xの中に、Aという集団がある。
 2 Aの中には、犯罪を犯す人間が含まれている。(→彼・彼女らは「在日」のすべてが犯罪を犯すように言っていたが、さすがにそれは本人たちもそうではないと知っているだろうから、このように言い換える)
 3 したがって、XからAを排除すべきであり、そのような行動を実際に取るべきである。

 彼・彼女らの主張では、Xに「我が国」が、Aに「在日」が代入されていたわけだ。しかし、このように記号化してみると、XにもAにも、実は他のいろいろなものが代入できてしまうことに気付く。例えば、Xに「地球」、Aに「日本国民」。すなわち、「地球には日本国民という集団がある。日本国民には犯罪を犯す人間が含まれている。したがって、地球から日本国民を排除すべきであり、そのような行動を実際に取るべきである」、など。
 というわけで、Aの中に犯罪者が含まれる、あるいはAの中から犯罪者が生まれうるから、A全体をXから排除せよ、という理屈を貫こうとするならば、彼・彼女らは、この星から叩き出されても文句は言えない。少なくとも論理的にはそうなる。

 いや、そんなことを言っているのではないのだ、と言われるだろう。我々は、<「在日」の犯罪率が我々日本人よりも高いこと、したがって連中が我々日本人の安全を脅かしていることを問題にしているのである。したがって在日は、我が国から排除すべきだ>と言っているのだ。など。

 なるほど。ことの真偽は知らないが、とりあえずこの主張を鵜呑みにすると、さっきの骨格は、次のように書き換えることができる。

 1 領域Xの中に、Aという集団と、Bという集団がある。
 2 AにもBにも犯罪を犯す人間がいるが、Aの方がBの方よりも、そのような人間を(絶対数あるいは単位あたり数で)多く含んでいる。
 3 したがって、XからAを排除すべきであり、そのような行動を実際に取るべきである。

 彼・彼女らの主張では、Xに「我が国」、Aに「在日」、Bに「我々日本人」が代入されていたことになる。しかし、このように記号化してみると、XにもAにもBにも、実は他のいろいろなものが代入できてしまうことに気付く。例えば、Xに「日本」、Aに「男性」、Bに「女性」。すなわち「日本には男性と女性という集団がある。男性にも女性にも犯罪を犯す人間がいるが、男性の方が女性よりも、そのような人間が(絶対数でも人口10万人あたり数でも)多い。したがって、日本から男性を排除すべきであり、そのような行動を実際に取るべきである」、など。

 ※ちなみに「人口」は総務省発表の08年3月末現在の住民基本台帳ベース、「犯罪を犯す人間」は、警察庁「平成19年の犯罪」より、07年中の交通業過を除く刑法犯の検挙人員〈したがって、本当に犯罪を犯したのかどうかは留保付きであることには注意〉で計算すると、女性10万人あたりでは122.5人に対して、男性10万人あたりではその4倍近い460.5人である。

 というわけで、Bの中よりもAの中に犯罪者が多く含まれる、あるいはBの中よりもAの中から犯罪者が多く生まれうるから、A全体をXから排除せよ、という理屈を貫こうとするならば、彼・彼女らのうちの「彼ら」は、「我が国」から叩き出されても文句は言えない。少なくとも論理的にはそうなる。

 これには何と言われるだろうか。私には想像がつかない。論理的な話をすれば、これ以上先には行けないのではないかと思う。だからおそらく、話は感情的なところに移っていかざるを得ないのではないか。そうなったら、少なくとも私は、彼・彼女らと同じ土俵で話をすることはできそうにない。そして、彼・彼女ら以外の人たちの方を向いて、さて、どちらの話がより説得的ですか、と言うしかない。
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反抗のために、バイクを盗む必要はない
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遠ざかる尾崎の叫び 没後15年 若者は変わったか
(朝日新聞 2007年4月19日朝刊、26面)

 シンガー・ソングライターの尾崎豊が亡くなって25日で15年を迎える。若い世代の反抗と苦悩を描き、いかに生きるべきかを探し続けた歌は、今や教科書にも登場する。「若者たちの教祖」「10代の代弁者」といった従来のイメージから変化が見られる一方、肝心の若者たちの心にその歌は届いているのだろうか。(宮本茂頼)
 (略)
 <盗んだバイクで走り出す>(「15の夜」)、<夜の校舎 窓ガラス壊してまわった>(「卒業」)。社会へのいらだちを過激につづった歌詞は教育現場にそぐわないように見えるが、意外にも「現場の教師から、自己の生き方を模索する代表例と勧められた」と[倫理の教科書に歌詞の一節を掲載した]教育出版の担当者は言う。
 (略)
 <人は誰も縛られたかよわき子羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか>。窓ガラスを壊す一節が注目されがちな「卒業」だが、学校や教師との単純な対立軸に回収しきれない戸惑いこそがこの曲の魅力を作り出している。
 (略)
 「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医の香山リカさん(46)も言う。00年頃から大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。
 「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。香山さんは「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる。
 (以下略)
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 私は、「首をかしげる」精神科医氏ではなく、「周りに迷惑をかけるのは間違い」とコメントした学生の方に共感する。少し考えれば分かるはずだが、「体制や大人に反抗する」ことと、「周りに迷惑をかける」ことは、次元が違う別の問題だ。
 コメントを寄せた精神科医氏や、当然それに共感して彼女の言葉を引用したのであろう記者氏は、「体制や大人に反抗する」子供が、自分の車を盗んだり、自分の家の窓ガラスをぶちこわしたりした時、「体制や大人に反抗する子供たちは、私の物をもっと盗みに来なさい、壊しに来なさい」と胸を張って言うのだろうか。

 繰り返すが、体制や大人に反抗することと、周りに迷惑をかけることは、次元が違う別の問題だ。だから、「周りに迷惑をかけるのは間違い」と言った学生が、体制や大人のいうことになんでもホイホイ付き従うのかどうか、それはわからないだろう。むしろ、この信念を確かに持つならば、「周りに(あるいは私に)迷惑をかける」体制や大人には反抗するはずだ。
 そして、その「反抗」の形態は、さまざまでいい。例えば、「周りに(あるいは私に)迷惑をかける」大人を見た時に、「あんな大人にはなるまい」と思い、それを実践するならば、それは一つの立派な「反抗」であり、積み重なれば社会を変えうるに違いない。ぬーすんだばーいくではーしりだしたり、よるのこーしゃまどがらーすこわしてまわーるような、誰かに迷惑をかける「物理的反抗」だけが反抗の形態ではないのである。「物理的反抗」が見られなくなった、それへの共感が少なくなった、というだけで、子供が反抗心を失ったと嘆くのは、哀れな短絡だ。

 以下はついで。記者氏は、「学校や教師との単純な対立軸に回収しきれない戸惑い」が、尾崎豊(の歌)の魅力だと言っているが、では、「大人だって子供のことを思っている」という学生の意見を切り捨て、「親や先生」を「仮想敵」にしてきた「これまで」の子供が望ましいように言う精神科医氏の、「単純な対立軸」に「回収」されたコメントを、これぞとばかりに紹介するのはどういうことだろうか。
 記者氏も引くように、尾崎豊は「人は誰も縛られたかよわき子羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」という。彼もここで、何者か(それを「体制」と呼びたければ呼べばいいが)に「縛られた」「先生」を「敵」にしても虚しい、と言っているのではないか。だからこそ、歌の登場人物の虚しさはぶつけどころの分からぬ激しい怒りになり、窓ガラスに向かうのだろう。だが繰り返して言うが、私はその虚しさや怒りが、窓ガラスを壊して(周りに迷惑をかけて)いい理由になるとは思わない。

 結局のところ、記者氏は、自分の好きなものが現在の若い世代に受け入れられないことの「いらだち」をぶちまけているに過ぎない。要するに、「今の若いもんは…」と言いたいだけなのだ。私は昔から尾崎豊の歌にはさっぱり共感できないクチだったが、彼は、この記者氏みたいな「かよわき大人」と闘っていたのかもしれない、と思った。
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「寛容さ」の独善--線はそこには引かれていない(3)
 毎日新聞(2007年2月18日朝刊)に、文芸評論家の三浦雅士という人が、塩野七生『ローマ人の物語(全15巻)』の書評を寄せていた。例によって言わなければならないことがあるので言う。以下引用。

 「日本人はローマ人に似ていると仄めかされて悪い気はしない。ローマ人の風呂好き、三十万の神々を擁して平然としている寛容さ、死期を自ら選ぶ潔さ、確かに似ている。おかげでいよいよ理解が深まる。
 だが、日本人が書いたことの特質がとりわけ明らかになるのは、……ローマ帝国の衰亡を具体的に描くことになる第十一巻以降である。
 なぜ世界を制覇したローマ帝国がキリスト教に制覇されなければならなかったのか。ローマ帝国の研究は膨大だが、ほとんどは欧米人、すなわちキリスト教徒の手になる。彼らにとってキリスト教による制覇は必然なのだ。だが、日本人である著者にとってはそうではない。この問いの鋭さにおいて本書は欧米の研究と一線を画す。」

 引用した最初の段落は、居酒屋か床屋談義程度の他愛もないステレオタイプであり、(その程度の話を、「文芸評論家」なる肩書きを持つ評者が大新聞の書評で垂れ流すことの無防備さについては、他人事ながら少し心配になりはするが)ことさらに目くじらを立てるつもりはない。ただ一つ、「日本人」たる私は、無神論(たろうとする)者であるゆえ、評者の言う「寛容さ」を欠いており、また、「死」を意識した時におそらく「生」に執着するであろう点で、評者の言う「潔さ」にも欠けているため、「いよいよ理解が深まる」かどうかは甚だ心許ない、ということだけを述べておこう。

 第二・三段落はどうか。彼はここで、「欧米人、すなわちキリスト教徒」と言っている。だが、言うまでもなく「欧米人」(これすら、タカアンドトシが笑いを取ることくらいしか有益な使い方がない、雑駁にも程がある概念で、こういうものを「文芸評論家」なる肩書きを持つ評者が大新聞の書評で垂れ流すことの無防備さについては、他人事ながら少し心配になりはする)があまねくキリスト教徒である、というのは端的な誤りである。いちいち挙げるまでもないが、たとえば、フランスにはイスラム教徒がいる。だからこそ、公立学校におけるベールの着用の禁止が社会的議論を呼んだ。
 また、評者の「日本人である著者にとっては」という書き方からは、日本人はあまねくキリスト教徒ではない、という認識が見て取れる(たとえばこれが「キリスト教徒ではない著者にとっては」ならば、幾分かは違っただろう。だが、第二段落で「日本人が書いたことの特質」と言っている以上、日本人=非キリスト教徒→「欧米の研究」にない「問いの鋭さ」、という論理構成は崩れない)。しかし、この認識もまた明らかな誤認である。日本には、人口の1%弱のキリスト教徒がいると言われている。まさか評者がこのことを知らないなどということはあるまい。
 このように、「○○人」というカテゴリーで宗教心/アイデンティティを単純に分割して「平然としている寛容さ」の背景には、マイノリティに対する配慮の欠如がある。言うまでもなく、「欧米人=キリスト教徒」という見方は、「欧米人」のそれ以外の宗教の信者や無神論者・無宗教者を無視することで、「日本人≠キリスト教徒」という見方は、日本人のキリスト教徒を無視することでのみ成り立つ。

 評者は書評の別の箇所で、<著者による><ローマ人の考え>という二重のバリアの向こうから、「キリスト教徒は人間の生を律するのは唯一神だという。これは独善、すなわち不寛容である」という主張を繰り出している(さらには、明らかにイスラム教を意識しながら、「一神教」を「殉教」「聖戦」「自爆テロ」に安直に結びつけ、「野蛮」としている。これはかなり薄ら寒い発想だが、ここではこれ以上は述べない)。だが、上のように、欧米人はみなキリスト教徒だ、日本人にキリスト教徒はいない、と言って「平然としている」評者の態度の方が、よほど「独善、すなわち不寛容」である。
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「平均で見る」ヒトの危うさ--線はそこには引かれていない(2)
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私の視点(2007年1月20日『朝日新聞』朝刊、13面)
「中国の実相 『平均で見る』日本の危うさ」
紺野大介(創業支援推進機構理事長、精華大学招聘教授)

 先日、日本を代表する3大学の副学長らとの対談に呼ばれた。テーマは「中国の大学とどう付き合うべきか」だったが、大学が特定されなかったため、議論はあまりかみ合わなかったように思う。
 中国の人口は日本の10倍、国土は25倍。(略)
 「中国の大学」と言っても、ピンからキリまで約千校の国立大学がある。(略)
 中国は国内総生産(GDP)で伊、仏、英を抜き、昨年初め世界第4位になったが、国民1人あたりのGDPではいまだ約120位。だから、中国は平均値で語っても、あまり意味をなさない。
 日本とは異なり、母集団から標本集団を抽出して傾向をつかむのが難しい。日本で誤解が生じるのは、この体感がないからだろう。中国について核心に迫る情報が希薄なのは、メディアの責任もある。
 中国を語る場合、何の話、誰の話、いつの話、どこの話が極めて重要だ。大学についても同様。中国最高峰の精華大学は単独での人工衛星打ち上げや、米大企業の研究委託費の大量流入など国際的な卓越度、認知度は圧倒的だ。
 (略)
 以前、精華大から日本の大学や企業訪問を要請された。手を尽くしたが、法務省のビザは下りず、結局、取りやめになったことがある。……ここにも、中国人を平均で処理するわが国の滑稽さがかいま見える。こんなことが繰り返されれば、見識ある学者も学生も日本に嫌気がさすだろう。
 (略) 
 中国を「平均」で見るのではなく、日本人の誠実さ、緻密さ、謙虚さを持って正視すれば、政治、経済、科学などの分野で、健康な競争原理と相互理解が進むと思われる。
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 今朝の新聞にこんな投稿が載っていた。こんなことに年中目くじらを立てていたくはないのだが、あまりによくできたオチ(もちろんこれは皮肉である)なので、指摘しておかざるを得ない。

 投稿者は、中国を一枚岩で捉える(投稿者の言葉を使えば「平均で見る」)ことの愚かさを説く。私は中国という国のことに詳しくないが、その通りだと思う。ところが、そう主張してきた同じ人間が、最後の最後で「日本人の誠実さ、緻密さ、謙虚さ」などと言うのである。これはいったいどういうことなのだろうか。
 日本の人口は中国の10分の1、国土は25分の1。だから、「母集団から標本集団を抽出して傾向をつかむのが」簡単である。それゆえに、このような「平均」で「日本人」を語ることができる、ということだろうか。仮にそうだとしよう。では、投稿者が言う、「日本人の誠実さ、緻密さ、謙虚さ」というのは、「母集団から標本集団を抽出して」、なんらかの調査を行うことで導出された「傾向」なのだろうか。投稿者は、その論拠を示していない。
 つまり、<「緻密さ」を特性とする「日本人」>であるはずのこの投稿者が、おおよそ「緻密さ」とはかけ離れた雑駁な印象論を発するのである。彼の発言内容は彼の発言内容によってすでに裏切られている。滑稽なこと甚だしい。

 自分の身の回りを、あるいは(日本人の方は)自分のことを考えてみればよい。知り合いの日本人に、誠実でない・緻密でない・謙虚でない、と感じる人はいないか。(日本人である)自分は、誠実・緻密・謙虚だろうか。
 少なくとも私は、誠実でない・緻密でない・謙虚でないと感じる日本人の知り合いや仕事上のカウンターパートを容易に思い出すことができる。また、日本人である私は、誠実であろうとしてもある時には誠実になれなかったり、ある面では緻密でもある面では非常におおざっぱだったり、自信がない時には謙虚になれても自信を持ってことに望むときは傲慢になったりする。これらは私だけでなく、多くの方が同じように思うのではないだろうか。

 だから、また同じことを繰り返し言わなければならない。「誠実さ、緻密さ、謙虚さ」があるかないかという境界線は、国籍によって引かれる性質のものではない(それどころか、それは一人の人間の中を貫いて引かれていて、誠実・緻密・謙虚な人間の集団と、そうでない人間の集団を分かつことなどそもそも不可能なのではないかと思う)。
 投稿者の言葉を使えば、日本を語る場合でも、「何の話、誰の話、いつの話、どこの話が極めて重要」であり、さらに言えば、人間を語る場合でも、「何の話、いつの話、どこの話が極めて重要」なのである。こうやって、ある国を一枚岩で考えてはいけない、と主張する人が、極めて自然に自分の国(の国籍を持つ人間)を一枚岩でとらえて怪しんでいないさまを見ると、ヒトが「一枚岩化の呪縛」(それをステレオタイプと言ってもよい)から容易に抜け出せないのだということを思い知らされるのである。
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「国民」への謝罪?--線はそこには引かれていない
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「製造ライン、うそ容認 不二家、詳細なお「調査中」」
朝日新聞、2007年1月16日
(略)
「国民の皆様にご迷惑をかけ、誠に申し訳ございません」。15日午後3時。東京・銀座の不二家本社で開かれた記者会見は、藤井林太郎社長や生産管理担当幹部ら3人の謝罪から始まった。会見場となった本社7階の社員食堂は、入り切れない記者が通路にまで並ぶ。藤井社長が辞意を明らかにすると、一斉にフラッシュがたかれた。
(略)
http://www.asahi.com/national/update/0116/TKY200701150388.html
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 この事件のこと自体は、いろいろな人が、いろいろなことを言ってくれるだろう。だから、あえて私が言うことはそれほどない。以下、あえて言うほどのことだけ述べる。

 記事によれば、社長は「国民の皆様にご迷惑をかけ、誠に申し訳ございません」と言ったようだ。この言葉に単純な疑問がある。
 迷惑をかけたのは(日本)国民に対してのみである、というのが彼の認識なのか。あるいは、(日本)国民以外に対しては、迷惑をかけたとしても申し訳なくはない、ということなのか。おそらく、どちらでもないのだろう。彼は、一種の決まり文句として、ほとんど意識することなく、「国民の皆様」という言葉を発したに違いない。
 だが、それでもあえて以下のことを確認しておく。
 (おそらく埼玉工場で作られた洋菓子は日本国内のみで流通しているのだろうから)日本に滞在している日本以外の国籍を持つ人が、国の基準の64倍の細菌が検出されたシューロールを食べ、健康を害している可能性はもちろんある。この人は、今回の事件で不二家に「迷惑」をかけられたことになるだろう。
 一方、日本国民であり、普段ケーキを好んで食べるわけではない私は、はっきり言ってしまえば今回の事件で不二家に「迷惑」をかけられたとは思っていない(ので、別に私には謝罪して頂かなくても結構である)。
 つまり、わざわざ説明するのもバカバカしいほど当たり前のことだが、迷惑をかけられた/かけられていないか(それにともなって、謝罪する必要があるか/ないか)という境界線は、国籍によって自明に引かれる種類のものではない。
 したがって彼は、「今回の不祥事によってご迷惑をおかけした、また、不快感をお持ちになったすべての方」へ謝罪するべきだったのである。あるいはそうやって謝罪先を限定することが印象操作にマイナスに働く、と考えるのであれば、単に「皆様」へ謝罪すればよかった。いずれにしても、謝罪の相手を「国民」という集団に限定するのは誤りである。

 最後に。先に、おそらく彼は無意識に「国民の皆様」と言ったのだろう、と述べた。そうでなく、彼が意識的に国民以外を謝罪の対象からはずしているのであれば、それは明白な問題であり、追及することは容易である。むしろ、彼の言葉が無意識に発されたものである方が、問題の根は深い。それが、「国」という枠組みがヒトの思考を制限していること、そして、ヒトは多くの場合に自分の思考がそれに制限されているのに気付いていないことを端的に示しているからである。だから私は、上のようなことをあえて述べた。意識することでしか、この制限を打ち破っていくことはできない。
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「ドーピング」の境界線(<すぎない>のだが、引かれていること)
 ディープインパクトという競走馬がいる。ずいぶん騒がれたから、競馬に興味がない人でも名前くらいは知っているかもしれない。「強い」ということで騒がれ、「フランスの大きなレースに挑戦する」ということで騒がれ、「そのレースで禁止薬物を使っていた(ために結局失格になった)」ということで騒がれ、「日本に帰ってきて大きなレースに出て『雪辱』を果たした」ということで騒がれた。

 私は高校3年の頃に当時の友人の影響で競馬が好きになり、それから3年くらいは興味を持って競馬を見ていた。今でも大きなレースくらいはテレビで観戦する。しかし以下ではディープインパクトのことや、競馬のことではなく、今回の騒動で(あらためて)考えた、もう少し大きなことについて述べる。つまり、「ドーピング」について。

 きっかけは、同僚の日記だった。その内容は、「これまでディープインパクトは、日本で禁じられていない薬物を使用することで圧倒的な強さを見せてきたのではないか。仮にそうだとしても、それをばらして、得するものはいないのだが」といった感じのものだった。これを読んで、違和感を覚えたのである。それで考えはじめた。

 同僚が日記で「日本で禁じられていない薬物の使用(による快進撃)」を悪いこと、少なくとも問題のあることだというニュアンスで語っているということは、彼が、それが禁止されていようといまいと、とにかく「薬物」を使って競争能力を拡張する(そもそもディープインパクトが摂取したイプラトロピウムという薬物が、本当に馬の競走能力を向上させるのか私は知らないが、以後、議論のためにさしあたり向上させるということを前提とする)ことを問題視している、ということだろう。つまり、「禁止されたもの」というカテゴリーに抵触したからではなく、薬物によって能力を拡張すること自体に問題がある、と考えているのだろう。
 しかし、たとえば、競走馬用のプロテインがある。これは、タンパク質を多量に摂取させ、筋肉を増強させるために投与されるものであり、何らかの物質の投与によって能力を拡張しようとする試みである。これを問題視するか否か。

 問題視するならば、両者の摂取を内包する行為をともに禁止側に含む、別の境界線とその根拠を探さなければならなくなるだろう。
 ただし、そもそもまったく能力拡張の試みを認めない(ことによってすべての問題の解決を図る)という行き方が、少なくとも理論上は考えられるだろう。しかしそれを突き詰めていけば、あらゆるトレーニングが、それどころか、競技の大前提となる、「動けるという能力」を担う筋肉を発達させることにつながる日常のあらゆる動作までもが認められない、つまり「一切動いてはならない」という地点にまで至ってしまう。
 それは言いすぎ・やりすぎだ、と(私も)思う。そう思うのは、この結論が「能力拡張」以前の「生命維持」をも脅かしてしまうと思われるからだろう。そこでまず、あらゆる「生命維持」の行為は認められるものとする。これにより日常の基本的動作や、日々の食物摂取は認められることになろう。その上で、しかし困難な問題として残るのは、どこまでが「生命維持」で、どこからが「能力拡張」なのかという境界線の問題である。
 さしあたり動作について、それによって能力を拡張する(いわゆる「鍛える」)行為が問題視されることは少ない(過剰なトレーニングが認められないこともあるが、それは過剰なこと自体が問題であるというよりは、過剰であることによって本人に危害が加わり、それによって本人のアスリートとしての活動に支障を来すことが問題とされているのであろう)。それはよいだろう。こうして、動作に関する境界線問題はクリアされる(というより考慮しなくてよいとされる)。
 では、外界から物質を摂取する(つまり「食べる」)行為についてはどうだろう。これについては、すべて認められるとすることはできない(というところからそもそもこの話は始まっている)。そこで境界線を探すことになるが、それはおそらく見つかりはしない。たとえば、アスリートが「高タンパク低カロリー」の食生活を心がけるのはどうか。これは「能力拡張」に見えるかもしれない。しかし、同じことが生活習慣病と診断された人に対して言われる時、これは「能力拡張」よりは「生命維持」に近い位置づけになる。同じ行為が、文脈によって意味を変えてしまう。
 そこで、この面倒な境界線問題を迂回し、たとえば「(天然のものを摂取する)普段の食事」ならよい、それ以外は認められないとして、そこから、「プロテインとイプラトロピウム双方による能力拡張の試みを問題視する」という視点を導き出す。すなわち、両者とも人為的に抽出/合成された「化学物質」であり、それを摂取するのは「(天然のものを摂取する)普段の食事」ではないから認められない、とするのである。
 しかし、「天然のもの」ならばよい、と言えるだろうか。たとえば禁止されている麻薬の中には、覚醒剤な「化学物質」(覚せい剤取締法第2条第1項によれば、「フエニルアミノプロパン、フエニルメチルアミノプロパン及び各その塩類」など)もあれば、大麻のような「天然のもの」(=植物)を原料としたものもある。このどちらもが禁止薬物とされる。したがって、「天然のもの」ならば禁止されない、という理屈は通らない。
 もっと原理的な考え方もある。すなわち、「化学物質」といえども、生成のプロセスをさかのぼっていけば、かならず自然界に現存する物質にたどり着く。その意味では、「天然のもの」を原料にした物質である。別の角度から考えることもできる。すなわち、「天然のもの」だろうと「化学物質」だろうと、突き詰めていけば「原子」(もっと細分化したければ陽子だの電子だの中性子だの)という「物質」に還元することができる。以上、「天然」「化学物質」の境界線が実は曖昧であること、そして「天然」ならばよいとはならないことを述べた。これらを踏まえれば、「(天然のものを摂取する)普段の食事」ならよい、という線引き自体の妥当性を守り抜くことができない。
 かくして、(まず「生命維持」と「能力拡張」の、そして「認められる能力拡張」と「認められない能力拡張」の)「境界線」を引こうとすると、それができない、そのため、プロテインとイプラトロピウム双方による能力拡張の試みを問題視することができない。

 一方、問題視しない、すなわち、プロテインは良くてイプラトロピウムはだめだとするならば、プロテインとイプラトロピウムの違いは何かを示さなければならないだろう。
 たとえば、前者は「栄養素」であり、後者は「薬物」である、と言われるかもしれない。なるほど直感的にはそのような違いがあるかもしれない。しかし、両者はどれほど違っているだろうか。「栄養素」だというプロテインは、何らかの原料(私が調べた限りでは「植物性プロテイン」と書いてあったから、何らかの植物、おそらくは大豆か何かなのであろう)から、何らかの化学的なプロセスによって抽出されたものである(「プロテイン」と謳って販売している以上、ただ原料を粉砕しただけ、ということはあり得ないだろう。原料からタンパク質だけを取りだし、吸収されやすいような加工を施しているはずである)。一方の「薬物」たるイプラトロピウムも、何らかの原料から、何らかの化学的なプロセスによって合成されたものである(化学に詳しい人は教えてください)。そう考えると、両者の距離は、原理的にはそれほど開いているとは思えない。そして、すでに述べたように、(天然由来の)栄養素だろうと化学物質だろうと、「原子」に還元してしまうことは可能である。
 「摂取→動作→能力拡張」となる物質のみが摂取を許されるという考え方ができるかもしれない。たとえばこれなら、プロテインとイプラトロピウムの間に、さらには(筋肉増強という結果を共有する)プロテインとステロイド系薬物の間にも境界線も引くことができる。これは相当のところまで行ける気もする。しかし、そもそもなぜ「動作」を介せばよいことになるのか、ということは説明できない(それはおそらく、私たちが「自分でやること、自分でできること(そしてその成果物を自分で独占すること)」に価値を与える考えに埋め尽くされた世界を生きていることと関係しているのであろうが、立岩真也の所論(たとえば『私的所有論』頸草書房、1997年を参照)は、それが単なる一つの信念にしか過ぎないということを明らかにしている)。
 以上から、プロテインとイプラトロピウムの間に、決定的な境界線を引くことはできないと思われる。

 かくして、ここで議論は行き止まりになってしまう。
 しかし、境界線は引かれている。現に、ある行為は禁止され、ある行為は許されている。考えはそれほど深まっていないが、さしあたりその地点から言えることだけを言っておきたい。
 その境界線が引かれている根拠として思いつくのは、1)生体に危害をおよぼす、2)公平性を阻害し、競技の面白さを減衰させる、の二つだろうか。1)はなるほど、「思いやり」のある考えかもしれない。しかし、「100mを1秒フラットで走れ(て、それが世界記録として認められ、名前が残)るなら、走り終えた瞬間に死んでもいい」という人に何と言えるか。そんなバカなことを、と言うか。「バカとは何だ、俺/私は真剣だ」と言われるかもしれない。「命の方が大切だ」、と言うか。「記録と後世に残る名前の方が大切だ」と言われるかもしれない。
 なかなか言うことがないなあ、と思った時、2)が持ち出されるだろう。つまり、公平でなければスポーツは面白くなくなってしまう、という理屈である。これももっともに思える。しかし、ある裕福な(社会に全面的にサポートされた)選手と、そうでない選手の間に「公平さ」があるだろうか。たとえば日本には、トレーニング室はおろか、合宿場に至るまでの酸素濃度を薄くして、高地と同じような効果を得る設備がある(ただし研究施設なので一般利用はできない)。それを使ってトレーニングできる選手は、使えない選手よりも、能力を拡張する手段を多く持っているということになる。これでは公平ではないのではないか。とすれば、これが禁止されず、一方、ある薬物によって能力を拡張することが禁止されるのはなぜなのか。ここに、公平性では説明しきれない部分が残っている。

 かくして、論理的に突き詰めようとすればするほど、境界線は引けなくなってしまう。そしてその結果、拍子抜けするような結論にたどり着いてしまう(これはまだ私の思考が足りないからなのかもしれない)。
 結局、境界線は、恣意的に引かれている。それは引かれているにすぎないのだが、引かれている以上、それに従うしかない(むろん、その引かれ方に異論を挟めるようになっていたほうがよいだろう。しかし、ここではこれ以上述べない)。
 そして、私が同僚の日記に覚えた違和感は、この結論とつながっている。すなわち、「日本で禁じられていない薬物」である(フランスでは境界線の「禁止」側にあったが、日本では「許可」側にある)以上、日本で使って(仮にそれによって圧倒的な強さを見せてきたのだとして)もいいのであり、それが「ばらされた」としても、何も問題はないのである。論理的に突き詰めていけば、そう言うしかない、というか、言うべきなのである。
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狩られたイルカを国旗で包まない、こと
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◎日本のイルカ漁に批判=「残酷で非人道的」−米紙
【ワシントン20日時事】20日付の米紙ワシントン・ポストは、日本で伝統的に行われているイルカ追い込み漁への批判が海洋学者らの間で強まっているとする記事を1面に掲載した。
 記事は、漁が「残酷で非人道的」とする専門家の見方を紹介。環境保護や動物愛護の活動家に加え、「有力な学者や水族館の専門家も一致して漁を非難している」とし、中止を求める反対運動が広がる可能性があると伝えた。
 在米日本大使館は同紙に対し、重要な伝統行事だとして漁を擁護。イルカが死ぬまでの時間を短くするなど人道的な取り扱いに努力してきたと反論している。 
(時事通信社 - 11月20日 19:10)
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 まず、「自身の肉食文化から外れる肉食行為に対する不寛容」という、至る所で見られる人間の反応は、考察されるべき、面白いテーマであると思う。また、「肉食行為(に先立つ生命の剥奪)の人道性・倫理性(、しかしそれでも食べる私とは何か)」というのも、精肉となった食肉しか見る機会がない私たちが、一度は(本当は何度も)立ち止まり、真剣に考える必要があるテーマだと思う。しかし、それらのことを、今ここで詳細に論じる用意はない。ここでは私の普段の問題関心から、ごく基本的な、しかしこの手の問題が出てきた時に繰り返される誤りを指摘しておくだけにとどめる。

 ミクシには、ニュースを自分の日記に引用してコメントを付けることができる機能がある。このニュースに対する反応を見ると、多いのが、「牛を屠って食べているお前ら[=アメリカ人]にとやかく言われる覚えはない」「自分とこ[=アメリカ合衆国]では散々非人道的行為をやっといて、そりゃないんじゃない」というもの。果ては、「我が国に原爆を落としたような国に人道についてうんぬんされたくはない」というものまであった。これらを言っているすべての人が、単純だが、それゆえに陥りやすい罠に嵌っている。

 確認しよう。イルカ漁に対して反対の姿勢を示しているのは、「アメリカ人」全体ではない(そもそもアメリカ国籍の人間であるとは、実は記事からは読み取れない。その蓋然性は高いが)。まして「アメリカ合衆国」でもない。
 まず、そもそも無生物である「国」が反対の姿勢を「示す」ことなどできない、というごく基本的なことを確認しておこう。「アメリカが反対している」と簡単に言って、それで済ませてしまう人は、「誰が」反対していることを指して「国が反対している」と言っているのか、と考えてみるべきである。
 その上で、たとえば「政府代表が」と言うのならば、「国」がものを言っている、という表現が成り立つかもしれない。そうすれば、それを代表する複数の人間のうち、ある者がAと言っているのに、ある者がAに反する行動をとっている、と言うことはできる。そして、これを言うことで、擬人化された「国」の言行不一致を暴き、その活動を改めさせることができるかもしれない(ただし、多くの場合うまくいかない)。その意味で、この言及は一定の役割を持つ可能性がある。だが、少なくともこのイルカ漁の文脈でこのような言及は不可能である。イルカ漁に反対しているのは一介の「活動家」や「学者」であり、アメリカ合衆国政府の代表者ではない。
 さらに、それが、突き詰めれば結局のところ国籍以外に確固たるよすがのない「○○人」などというカテゴリーを背景にした言及である場合、すなわち、ある「アメリカ人」がAと言っているのに、別の「アメリカ人」がAに反する行動をとっている、と言う場合、この言及はもはや批判力を持たない。「アメリカ人」というカテゴリーに置かれる複数の人間の考え・行動が相互に矛盾していることを指摘することで、一体何が生まれるというのだろうか
(たとえば、「○○人」ならすべて同じ考えを持っている/なければならない、とする「国民全体主義」者にとっては、この批判は意味をなすのかもしれないが、多くの人はそうである/べきであるとは考えていないだろうと思う)。また、仮に一人の「アメリカ人」がAと言い、Aに反する行動をとっている場合、それは、「アメリカ人」というカテゴリーや「アメリカ」という国の問題としてではなく、その者個人の問題として批判するべきなのである。
 少し立ち止まって、以上の簡単な(しかし言葉は案外費やさなければならない)事実に思い至れば、上のような「お前ら」「お前のところ」というナショナリスティックな視点に回収される、感情的な反発はできないはずだ。それでもなおするのであれば、それはただのためにする反発として一蹴するしかない(「国」と「人」とを区別しない、あるいは前者の中に後者を溶解させてしまう「単純化」が健全でないこと、私は少なくともそれに抗いたい、ということについて、このブログの「裏切られた韓国への思い?」も参照。コメント中では、上記のような考えをベースにして、「韓国は日本が嫌い」という言葉の物足りなさについても言及している)。

 もう一点。記事は「日本の」イルカ漁と言っている。そして、在米日本大使館がそれを伝統行事として擁護した、と書いている。しかし、これも少し注意して考えてみる必要がある。この記事では、「在米日本大使館」という日本国の一行政機関が「重要な伝統行事だとして漁を擁護」した、と報道することで、イルカ漁を突如として「日本の伝統」に仕立て上げ、事態を国と国の対立であるかのように書き立てているのではないか。
 そもそも、イルカ漁(やイルカ食)は、果たして「日本」の伝統なのだろうか(そもそも「伝統」とは何なのか、という問題はさしあたり措く)。少なくとも東京の都市部で生まれ、郊外で育った「日本人」である私は、イルカ食の習慣はない(どころか一度も口にしたことがない)し、イルカ漁を「伝統行事」だと思ったこともない。また、イルカ漁に反対の姿勢を示す「日本人」たちがいる(試しに「イルカ漁」で検索をかけてみれば、イルカの「殺戮」に反対する「日本人」のサイトがたくさん見つかる)。
 すなわち、「日本人」である私は、「イルカを捕り、食べることが当たり前」という価値観を持っていない(その背景に、イルカ漁・イルカ食という伝統を持つ「文化」のもとに育たなかったことがある、と言ってもいい)。さらに、イルカ漁に反対する「日本人」たちは、「イルカを捕り、食べることが当たり前」という価値観とは異なる価値観を持ち、この価値観を受け入れていない(ここは話が少し複雑で、イルカ漁・イルカ食という伝統を持つ「文化」のもとに育っていても、この価値観を否定する人がいるだろう。しかし一般的な傾向としては、この価値観は、イルカ漁・イルカ食を伝統とする「文化」の下で形成されやすい、とは言えるはずである)。
 これでも、イルカ漁は「日本の」伝統だ、文化だ、と言えるだろうか。そして、イルカ漁をめぐる対立が、国対国のものであると言えるだろうか。「言える」と言う人にはそれなりの説明を求めよう。

 以上、( )の補足書きが多くて読みにくい文章を書き連ねたが、言いたいことはごく単純なことである。イルカ漁をめぐる対立は、国と国の対立ではない。それはただ単に、「イルカを捕り、食べることが当たり前」という価値観と、そうでない価値観の対立にすぎないのである。それ以上でもそれ以下でもないし、それ以上にもそれ以下にもしないほうがいい。そして、そこから考え始めればよい。
 むろん、たとえば捕鯨をめぐってIWCという「国際会議」で繰り広げられるのは、まさに国と国の外交的対立である。しかし私が言いたいのは、それを「国民」=人と「国民」=人の感情的対立にすり替えないほうがよい、ということである。いたずらに「国」という視点を持ち込んで、ことを感情的にしても、何のプラスにもなりはしない。それに、「こと」はそれよりはもう少し複雑になっているはずで、だから私たちも、もう少しだけ複雑に考えてみなければならない。
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